昭和47年4月18日 朝の御理解 【ハルコ】
御理解第18節 此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。
生神への道、それは、厳しいけれども、おー、楽しい、有り難い。ね、ですから、あー、教組金光大神は、うーん、そういう信心があー、厳しいものではあっても、楽しいものだと。有り難いものだと、言うことを実証された方。そういう証しを立てられた方。ね。どんなに、慈悲を説いても、どんなに、愛を説いても、うーん、それは素晴らしいことに違いはないのですけれども、やはり、なるほど、仏の慈悲にすがるとか、神の愛にすがるとか、またそれを、私共の心の上にも、慈悲だ、愛だと言う、うー、生き方というか、そういう、あり方にならせて頂くということにです、あたくしはその証しがないと、ついていけないと思うですね。それが、人間だと思うです。
●13 教組の場合には、ね、そのいわいる、うー、なんですかね、えー、神の氏子とこう、だから皆も生き神になれれる、うー、んだと。この方がおかげの受けはじめであると。なら、受けはじめということが、ただ、自分だけが、生き神になった、生き神になったとゆうとるだけではなくて、なるほど、生き神の境地というのは、そのように素晴らしいことかと。しかも、その素晴らしい心の状態には、そのように素晴らしい、いわいる、おかげの実証というか、おかげの証しがたてられるというところに、私は、金光大神の信心の素晴らしさがあると思うですね。
●7 愛の心を説かせて頂いておる、例えば、ってそして、えー、最後にはりつけにあわなければならないなんていう、もうどんなに考えたって、あたくしには合点がいかないですね。ね、そこから、また、キリストのなんと言うですか、再来というかね、生まれ変わりといったようなこと、なんにしましてもです、その、私は、そのへんのところは、こう、人間離れのした、信心だと思うですね。まあーここで、えー、他宗派のことで、どうこうということではないですけれども、ただ、金光大神が証しの人であるということ。実証の人であったということ。なるほど、和らぎ、喜ぶ心、即それが、神心でしょう。ね、私共が神心になり、いや、そのことに精進させてもらう。和賀心にならせて頂くことを、精進する。
精進することによってです、それに、おかげがとものうてくる。しかもそれは、ね、親の代よりも、子の代、子の代よりも、孫の代におかげが頂けていけれる、そういう道をです、身を持って実証された。ね、そりゃ、慈悲の心も有り難かろう、愛の心もそうじゃろうとこう思う。けれどもです、それがです、ほんとに、子孫にも残り、あの世にも持っていかれるというが、その持っていかれる印に、いわいる残しておけれ印に、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、おかげの頂けていけれる、道というものを、実証された。そして、みんなもこのようなおかげが受けられるぞとこう。ね、そこに一つの、手本というものがです、ある。だから、あたくしどもがいくら打ち込んでも、いくら熱心、おかげ、信心に、えー、専念させて頂、頂くその、一つの張り合いというものがある。
ね、昨日、ある方がお参りをしてみえました。あー、おばあちゃんですけれど。うーん、熱心にお参りされます。まだ、えー、そのー、ご主人も、子供達も信心するとゆうところまでいってないけれども、おー、大変、実意丁寧な信心をされます。昨日の、お届けですか、一昨日でしょうね。町内で、ある飲み事があった。それで、えー、まあー、しこたまお神酒が、あさって帰ってきて、まあー、何が気に、やっぱ入らなったことがあったんでしょう。もう、うちに帰って、あえだした。で、ちょうどその、幸か不幸か、その前の日に、少し大金がお金、入っておったと。だから、その奥さんに、お金を出させ、出せと。俺は今から飲み行く。というてまあー、そこで、夫婦、それにはまたおじいちゃんまで出てきて、その( )なだめすかしするけども、もう、それこそ、こう、おー、とにかく、もー、まぁやかましいことであると。
それから、おばあちゃんがご神前に出てから、一生懸命ご祈念を始めなさった。はたすん?ご祈念のときに、やあやあ言いよるとが聞こえる。いくらばばしゃんがゆおうごたっちゃ、(金光様がて、あー、絶対 ?)っちゆうちから、後で言いよったけれども、ご祈念中に、いつの間にかおとなしなって、寝てしもうたと。もう、ほっとに親先生、この頃、あの、ゆうな、ゆわずに治めろと仰るですが、もう、ほんとに、黙って祈るということの素晴らしいことを、まあー、昨夜ばっかりは、まざまざに見せて頂いたとこういう。
ね、今日は、ある人が、これもまた、あー、ある方のお取次ぎさせて頂いたんですけど。なるほど、最近、まぁ熱心に信心をいたしております。そうとう、お手びろう、お商売もさせて頂いている。ところが、んー、えー、お商売をさせて、私共、過去において、同じことであったと。なるほど、おかげを受けれなかったはずだと。もうほんとに、まぁ言うなら、あー、私の商売のやり方というのはです、いわいる終戦直後の、どさくさの時代ですから、うー、ほんとに、ひどい商売をさせて頂いたと。もう、それこそ、詐欺一歩手前といったような信心、えー、させて頂きながら、そういう、うー、言うなら商売をしてきとる。やっぱその人も同じような、そのことが、もうとにかく、信心しよるからわからんと思うとった。ところがそれが、ばれてから、ばれた上にもまた、次々ばれていって、もう、金光様、もう絶対参らん、もう拝まんと言って、まあ、カンカンになる。で、昨日家内が、そのことをお願いにたてまいりましてね、せっかく主人が、信心させて頂くようになって、自分のお粗末、ご無礼は棚に上げて、そういうことが、ことろけん?したとか、そういうような、そのために、えー、損害賠償をとられたり、または、警察から( )っといったような、いろんなことがあったもんですから、もう、金光様、もう金光様、こげんとばこうやって、カバーして下さるとが、神様じゃろうもんというようにその、いきり立っておりますと、こう言うのである。
●2 それで、えー、ほんとに自分たちの火を、棚に上げてからの、そういう言い方を、お詫びすると同時に、どうぞおかげを頂きますようにと言うお願いであった。また、そん時に頂たのが、「神に一計あり」と頂いた。神に一つの計っち言うのは、計り、計り。ね、神に一計ありと言うこと。だから、ほんとにここんところをですね、あの、信心させて頂くなら、させて頂きよるもんの、生き方というものがあるのだと。信心の道によって、商売をすると。それを例えば、違反しておる。まあ、こんくらいのこと誰でんしよることと、ゆうたら、もうそれまでのこと。ね、そころは、お詫びをさせて頂いて、おかげをいただきゃ、神様にもちゃんと、深い、深いお計らいのあってのことだから、おかげになるよとゆうて帰した。
それから、私は、午後の奉仕させて、夜のご祈念のときに、またそのことを、お願いさせて頂いておりましたらね、いわいるその、大きな道路です。道路が、バアーとこう、あるんですよ。こう盛り上げたような道路なんですけどもね。その道路の下にまあー、こう穴がほがしちゃるですね、こんくらい。こう人間がやっと入っていけれるように。道がこうあるなら、道の下にこう、穴がほげてる。雨が降ったら、そんときにここから、水が流れていくようになるってるんですね、あれは。いわいる、道が、その、道のおー、その下に穴がほげておる。そんなことを頂くのです。ね、立派な道があるのに、その道は通らずに、下の方の、いわいるトンネルのごたるところを、通りよる。しかも、窮屈な思いをして。私は、それから思わしてもらうですね、こりゃもう、私の体験を、話せばなお分かることですけれども、まあー、お互いがです、もうほっとにこの、あの、(よごれとりますけれども)あの、泥棒ほどね、もの悪い商売はないとゆわれとるです。いかにも、ただで黙って、持ってくるとじゃけん、一番儲かるごたるけれども、なら、泥棒で儲けだしたっちいう者はおらん。悪名は残る、だけではない。最後は、結局まあー、そりゃ捕った金ですから、あー、豪遊するとかね、お金を使って遊ぶといったようなことは、できたにしましても、それが、身には付かない。悪戦身に付かずだ。
それでもです、まあーだ、わからんかと思うちから、それをその、繰り返させて頂いておる、うー、人たちがたくさんありましょうけれどもです、ね、そこで信心させて頂いて、神に、神に一計ありとこう、ね。ほんとに真の道をわからせたい、そして、真のおかげを頂かせたい。そういう、信心が熱心になってきたからこそ、神様がいっぺんに、今までの言うなら、悪事( )したわけです。なるほど、それで信心を落とすようなこともあろうけれども、そこから信心させて頂けば、おかげを受けられるということ。だから、それが、神様がカバーして下さる。神様が包んで下さる、っと言ったようなそれをおかげと思うとったら、もっとどんな大きなことをしでかすやら分からない。
いやこの、ずいどうのような、窮屈なトンネルのような所を通りようるときに、もう本当のおかげがあったならば、ここにおかげの水がドオーっと流れたならね、もう後にも先にも行かれん中で、死んでしまわにゃならんようなことにすらなる。なりかねないんです。ね、だからその穴を早く、こっち出てこいっち。いかにも、お恵みがおかげじゃなかごたるけれども、今おかげ頂いたら、かえっておかげをおとすことになるのだとこういう。ね、こっちへ出てくれば、道はちゃーんとあるのだと。ね、けれども、こすい事とか、ずるいこととかと言うものは、いかにもそれが、てっとりばよう儲けたつごたる感じがするわけですよね。そして、それがわからんように思うのです。
私、そういうお取次ぎさせて頂いて、ほんとに信心させて頂いてです、これは、なら、それだけじゃありません。ほんとに、おかげがいつまってん、受けられんという人はです、私はいっぺん、ほんとに、自問自答してみてです、こういう道を通っておるようなことはなかろうかと。暗い、窮屈な、ね。改まねばならんところを改めもきらずに、やはり、信心はしよっても、ここを通っとる。だからもし、ここで、おかげ、おかげというとる、おかげの水がここに流れてきたら、それこそ、大変なことにならなければならない。神様がこれを出てくるまでは、おかげ下さるはずがない。
ね、これは、昨夜あー、久富さんのお話しを聞かせて頂いたんですけれども。もうこの頃から、お野菜が安くて、もう、とにかく、うー、車一台持っていって、千五百円ぐらいしか、もう、油代もない。ね、しかも、もう、グラグラ?して帰ってきよるもんじゃけん、もうその、まあー、スピード違反で、捕まえられちから、五千円罰金とられた。ちょいとこげなんことなかもう、野菜は千五百円がとなかとに、罰金が五千円もとられちからと言うてから。けれどもさあー、そこが信心ぞということなんです。ね、信心しよるけんで、いつもサーブ。また売れた、また売れたっちゆうごたることばっかりあるもんか。ね、そこが、日頃の信心にものいわせるとこじゃなかか、そこんところば、有り難く頂いていかんのじゃないかと。そして、違反しておるというその事実をです、ね、( )違反しとった。それがふが悪か。神様もほんとに、そのー、おー、ここんところを守ってくれるとが神様じゃろうもんっと言ったような考えかたではなしにです、そこんところを、詫びるところは、詫びる。そして、神様のご都合であるということをです、分からせて頂いて、いくということが、その、時点、その時点を大事にしていくということが、大事なところじゃないかと、言うて聞かせたり、また自分もそれを思うたりしてまいりましたら、もう、それから、その後の、そのー、おかげというものは、もう、近所の人がたまがっとりますっち。もう、久富さん、あんた方のばっかりが高かってすかっちいう、言われるくらいに、もう最高の高値、高値をあの、ところへこう出させて頂いておると。
今、大根とか、あのレタスなんかがどんどんでておるそうですが、始めの間は、一箱、25入っとる。それが千七百円。それでも、とにかくたまがるぐらい高かった。そしたら、また他んところに、おかげ頂いて、今度は二千円。昨日なんか、親先生、一箱が2400円しとりますと。もう、誰もかれもが、びっくりしてしまって、( )。こりゃ、買いなさる人は、どういうことになるじゃろうか。レタス一つがと、ほんとに、買いなさる人のことまで心配しましたという話を、昨日しておられました。
ですから、そういうことだけが、続くということじゃないけれども、その前に、ね、言うならば、自動車一台持って行って、千五百円しかもろうてこと、( )その帰り道には、こう、違反にひっかかって、えー、五千円も罰金とられるといったような、事態?を大事にしとる。私は、金光大神の道というのは、そういう道だと思うです。ゆうならば、打ち向かうものには、負けて、時節に任せよとこう仰る。そこには、自分の次の助かりだけではなくて、ゆうならば、打ち向こうてくるそのままでも助かっていくという。
ね、私は、例えば今日の18節からね、いわいる金光大神は、そういうおかげのうけられる実証をなさった方だと。証しを立てなさったんだと。そこで、なら、私共が、いわいる、わが心が神に向こうていくのを信心というのじゃと教えられるように、生き神をお互いが目指させてもらうということ。そげん、生き神様にでん、ならんでよかてなんてん思わずに、ほんとに、生き神を目指すという信心にならせて頂けば、この方のようなおかげが受けられるということ。何十年信心しよったっちゃ、おかげ頂かん。というならばです、今私、3つの、昨日お取次ぎさせて頂いた、あー、ことの、まあ、例話にお話ししましたが、そのことをです、私は、一つ思うてみなければいけないと思うのです。
男同士、女同士、兄弟同士、村内同士、ね、同じ日本人同士、同じ人間同士と。同士という言葉を使いますね。同士ということは、同じ心ということ。この頃、ある人がお届けおり、小学校1年生。お金をいくら、いくら、お母さんにくれ。どこどこに、行くから。もう、そげなことには、いかんがよかっち。そういう子供が申します。男同士のお母さん約束だよっち、ゆうちからゆうたっち。男同士約束しとったんです。ね、( )その、同士ということがね、相手を裏切っちゃならんということなんです。ね。私はほんとに、あの、この同士ということがです、ね、いわいる成就してまいりましたら、世界は平和になると思うですね。人間同士が戦いあう、それも、例えば講義名文っていうか、世界平和のためと。どうして、戦争しあったり、殺しあったりすることが、世界平和のためになりましょうか。ね。例えば、信者同士、ね、お道の信奉者同士。だから、せめてです、信者、まあ、信奉者同士( )、合楽信心を頂いておる者同士ぐらいはです、同じ心に精進、焦点をおいて、信心させて頂かなければいけない。ね。
●2 その焦点を、どこにおくかと。お互いが例えば、ね、和らぎ喜ぶ心、むつび?和らぐということ。今日は、限り、なんべんも、頂くことは、「むつび和らぐ」ということ。頂きます。そして、同士ということ頂いております。ね、いわいる、むつび和らぐ同士という者がです、だんだん、大きくなっていくということが、和賀心時代を創っていくことだとこう思う。
昨日も、合楽会で、遅くまで、えー、共例させて頂きましたが、ね、せめて、合楽の人達同士ぐらいはです、なるほど問題はあろう。問題はあろうけれどもです、ゆうなら、あー、教会の先生はどげんいいなさるか。っというようなことで、話が、問題がなくなるようなおかげは頂かれんもんだろうかと。せめて、合楽の村の全体の人がです、合楽の村の者同士がです、ね、問題はあっても、その問題をです、解決する焦点を、教会にもってくる。そして、親先生は、なんと言いなさるだろうかと。それで、話が決まっていくような、生き方はできないもんだろうかと。昨日集まっておられる、合楽の方達にです、そういう、一つ願いを持って、自分の周囲の人達に、信心を、まず自分がおかげを受けて、人に伝えていかなければなりませんなっと言うて話たことです。
ね、嫁と姑の仲が悪いと、それは天地に響くと教祖様は仰られております。ね、嫁、姑の仲が悪いということは、ね、いわいる、むつび和らぐではなくて、その反対の言葉です。それが、天地に響くという。だから、それが反対になったら、どういうことになるでしょう。ね、その、いわば、むつび和らぐということが、天地にまた響かんはずがありません。それを、教祖金光大神は実証されたんです。ね、愛の心を説く、難事の敵を愛せよと、ね、人どん叩かれたら、ね、右の手を叩かれたら、左の手を出せという、素晴らしい教えではある。けれども、それが、叩かれっぱなしといったようなことで、人間は合点がいかんのですよ。人間は。素晴らしい教えなんだけれど。ね、ところが、教祖金光大神が、教えられたことは、打ち向かう者には負けて、時節を任せと仰る。その時節に任せたときには、どういうことになっとるかと言うと、相手も助かり、自分も助かる道が開けてくると言ってる。それを実証されたんです。
●7 まあ、ほんとに、他の宗旨、宗派を対象にして悪いですけれども、ね、ただ、自分はどげんなったっちゃええ、あの世で極楽に行くために、自分自身をいよいよやしのうていく、そういう珍しい人はめったにないと、私思うです。ね、またそれについていくなら、ついていく人は、あたしゃ、どうかしとると思う。ね、自分の心の中に慈悲心をつぶらせていけばいくほど、もちろん自分は助かるでしょう。楽でしょう、慈悲心。仏様の心ようになる。なら、仏様のような心にならせて頂いたらです、こういうおかげが伴うというところに、私は人間の、私は願いがあると思うんです。いくら、ご利益、ご利益、ご利益はていきゅう?だとか、ゆう人がありますけれども、そういうおかげを現しきらんから、そういうておるのです。
ね、難事の敵を愛する、いわいる愛の心というものをです、私共の心の中に頂いてもです、結果は、磔にあわなければならないといったようなことで、私達は合点がいかん。和賀心が一歩、一歩神に向って近づいていく。ね、此の方がおかげの受け始め。生き神とは、ここに神が生まれるということであってと教えられるように、自分の心の中に、はあー、これが生き神の気持ちであろうかと、自分で自分の心が拝みたいような心。ね、そういう心がでけていくところにです、まあ、さっきから私がお話しを申しましたように、ね、久富さんのお話においてしかり、ね、息子さんとそのおばあちゃんの、そのお話しにおいてしかりであります。
ね、そういう教えの状態、心の状態にならせて頂くところにです、ね、それこそ、こげなん馬鹿らしいことはなか、一台が千五百円がたしかなかった、しかも帰りには、一万五千円の罰金とられたという中に、あってもです、そのこと事態を、ご神意だとして、有難く頂いていく道を教えられた。なら、道を、ならはあーそうかと、合点しただけで、そのままであったら、合点がいかんのだけれど、さあ、その次から頂いとるおかげというものはです、ただ、周囲の人がたまがるようなおかげというものが、とものうておるというところにです、金光様のご信心が、私あると思うです。
ね、なるほど、嫁、姑の仲が悪いと、それが天地に響くほどしのことならばです、こりゃ、嫁、姑のことだけではない、友達同士であってもそうです。ね、村内同士であってもそうです。人間同士同じことです。ね、それが、同士であるという、同じところに焦点をおいての、私は生き方というものがです、ね、なされる限り、いわいる、和賀心を目指しての同士であるならばです、ね、そこにむつび和らぐ喜び。それには、いわいる、おかげが嫌というても、もとのうてくるということ。
だから、正しいんだ。ね、なるほど信心の道は、ある意味において厳しい。けれども、有難い。けれども、楽しいのである。金光様の信心はこれなんです。ね、なら、私がこうやって皆さんにゆうておるだけではないのです。ほんとに、私、その気にならせて頂いておれば、ね、そういうおかげが、私自身受けておるということなんです。
昨夜、えー、幹三郎が夜の御祈念を当番しておりましたが、お話をさせて頂いておる中から、ほんとに感心して聞かせて頂いたんですけれどもね。お互いが、やはりあの、教育を受ける。いわいる、小学校、中学校、高校、大学というふうに、進んでいけばいくほどです、いわいる、頭の方の知識が発達するとこうゆっております。だから、どうでも、心がそのようにして発達していくことが、なされなければならない。親先生が、和賀心学ということを言われるが、ほんとに和賀心学をおさめてです、ね、小学校から中学校というように、勉強さえすりゃそうことになりさえすればです、誰でも頂けるのが和賀心なのだから、そういう心の状態をです、心、最近は心ということをいわれるが、その心がいよいよね、えー、進んでいく。それは、学問の道によって頭が、いわば、良くなったり、知識が豊富になるように、私共の心の状態というものが、いよいよ和賀心になっていくというような、教育がなされない限り、世界の平和は無い、ありえないんだと。私は今日、思うた。
今日テレビで、えー、川端やすなり?さんですか。が、自殺をされたということをニュースで聞かせて頂いたが、ね、それこそ去年でしたかね、一昨年でしたか、あれは、ノーベル賞でしたか。世界、日本では始めてというようないわば、英雄に輝いた人が、しかも、どこか体が悪いとか、病気を苦にしてというなら、いざ知らずじゃけれども、なんでもない、まーだ、72であんなさったそうですね。その話を、例、例話にとって話してるわけです。ね。いわいる、頭だけが進んだ結果がこういう、悲しいことになったんだと。あれが、心も一緒に、なら、あれと育っておったら、素晴らしいことになったであろうけれども、ね、いわいる、頭でっかちになっておる事実がね、そういう悲劇、そういう悲しいことにまでなったと。ね、私達、本気でです、いわいる心の確認をさせて頂いて、その心がいよいよね、小学校から中学校というように、進んでいく楽しみをね、身に付けていかなければならないというようなことを( )と話しておる。
ほんとにそうだと。もう、それこそ、くまがえさんじゃないですけれども、親先生、幹三郎さんの、どっからあれがでるじゃろうかっち、私は感心したっちゆうておられます。ね、自分自身がね、自分自身がまだ幼稚園でありましょう、小学校でありましょう。ね。けれどもその、和賀心とはということを追求して、自分の心の中に、それに似たようなものが出けてくる事実があるからこそ、あの話が出来るんだと私は思うんです。ね、信心させて頂きよってこの、トンネルような中を通らなくても、道があるのだもん。そして、おかげ頂かん、頂かん。これでおかげ頂きよったら、窒息してしまわにゃならん。おかげの水がそこん中通ったら。ね、なるほど信心しよるからお天気の日ばっかりとは限らんのだ。ね、千五百円がたしか無かった、しかも、帰りには五千円も罰金はろうたというようなことも、やっぱりあるのだと。けれども、そのことを有り難く頂いていけっち。ね、それこを神に一系ありである。もう、次におかげを頂かせたい、やむにやまれん思いが、そういう痛い思いをさせられたり、そんな思いをさせられたり、しておることの事実をね、神愛というのである。
神愛とは、なでさすりすることだけが神愛じゃないのだと。ね。そういうふうにです、私共が、お道の信心によってその信心が、行の上に現されてくるときに、それは必ず、自分の心の上に有り難いと感ずると同時にです、それにとものうてくるところのおかげの実証というものが必ずあるのだと。私がた、だから、厳しいけれども、楽しいということになる。そのようにして、私共は、生き神を目指しての信心というものが、だんだんなされていかなければいけないと思うんです。ね、せめて、家族の者同士ぐらいはね、もうほんとに、親先生がどうしよったかと。どんな問題があっても、ね、それで解決できるぐらいのところに、一つ信心の焦点をおいたら、どうでしょうかね。ね。
同士ということはもちろん、同じ志ということなんです。その志の焦点が、ね、和らぎ喜ぶ心、いわいる和賀心。ね、そしてその、同士のおかげをです、ね、村に町に広げていこう。そして、祈りとしてはです、世界中にそういう一つの運動が展開されていく。ね、和賀心時代を創るという、ゆうなら神様の御悲願にこたえ奉らせて頂こうという信心。それには、まず私の心から。まず、私の家庭から。ね。こういう心の状態にならせて頂けば、鬼のごたるばばさんが、仏さんのごつならっしゃったっちいうごたるおかげば頂かにゃならんのです、だから。ね、それが、んんなら、嫁姑の仲であってもです、ね、それが心で、そういう戦いがあっておって、おかげが受けられるはずがない。ね。
それが、天地に響くという事実をです、ね、教祖様は教えてくださった。しかも、その事実はです、んんなら、それと反対に、なら、嫁姑が仲ようする、むつび和らぐということになったら、その、そのことまた、天地に響くということをです、自分が身をもって実証された。はー、もう、嫁と姑、家庭円満に( )言いなさる通りしよったら、円満になった。そこまでは、有り難たかった。けれども、それがね、おかげにつながらないなら、私はこげん淋しいことはないと、私は。私たちはもうちっとは、その欲が強いのでしょうか。けれども、私は、ただ愛の心だ、慈悲の心だというて、ね、やはりそこにほんとのそれにともなうところの、ご利益というものがともなわなかったら、私はしょうちが?。なら、私自身がね、今日までの信心を進めてこれなかったと思うです。
こちらが、改まれば改まっただけ、磨けば磨くだけ、自分の心の中に頂く喜びの心はもちろんだけれども、それにともなうおかげが、とものうてくるから、もう、それでたのしゅう手ごたえんことになってくる、信心が。しかも、この有り難い心があの世までももっていけるというのですから、いよいよ有り難い。ね、金光大神はそういう道を実証された方。そこに、教祖金光大神の一つの得意せいというものがあるようですね。ですから、私共もそういう証しを立てていく、信心生活というものがなされなきゃならない。ただ、拝んでおる。ただ、参っておる。けれども、( )だけは自分のよかごと、ずるいこともすりゃ、こすいこともするといったようなことでね、ほんとの意味においての証しが立つはずはない。
ね、生活の全体が、金光大神のいうならこんなりっぱな道があるのだから、下をくぐるようなことをしなくて、この道を堂々と歩かせて頂く道を体得させて頂かにゃならんと思うですね。どうぞ。